映画「ショーシャンクの空に」をみました。印象に残った5つのこと・・・

ショーシャンクの空に」という映画を見ました。

あらすじは、他のブログにもたくさん書いているので、印象に残ったことを書いていきます。

 

大きく分けると以下の5つです。

  1. そもそも罪ってなに?
  2. 刑務所内は、一見多くの人には関係なさそうな環境だが、実は現代社会の比喩?
  3. 信仰があるからといって善人にはなれないということ
  4. 身体的な自由を奪われたとしても、心は自由であることの重要性
  5. 希望を持ち続けること重要さ

 

以下、多少ネタバレを含みます。

1.そもそも罪とは?

日本大百科全書(ニッポニカ)

広くは法律的、道徳的、または宗教的な規範に反した行為すべてをさすが、とくに宗教的な意味での背反行為を、法律上の犯罪などから区別して「罪」ということがある。

とのこと。

なぜここで、「罪」の定義について触れたのかというと、以下の2点が理由です。

  • 主人公のアンディは冤罪で刑務所に入れられてしまう
  • 本作でも2つの意味で罪という言葉が使われているという解釈したから

 

主人公のアンディは、無実の罪という人間の判断の誤りで刑務所に入れられているのであれば、

一体なんの為に服役し、トレードオフできない時間を浪費しなければならないのか。

状況証拠だけで無実なのに終身刑が決まってしまうというのは、本当に恐ろしい・・・。

正しい判断をすることが極めて難しい人間が、裁きを行うことには限界がある。当たり前ですが改めて冤罪の怖さを思い知ります。

 

20年間刑務所に入れられたアンディですが、話の最後の方で脱獄に成功します。

脱獄は法律的にはいけないことですが、謂れのない罪で20年以上服役したアンディは、脱獄によるペナルティはなかったように感じます。

それどころか、夢だと言葉にしていた生活が実現し、友人とも再会して幸せな物語の閉じられ方をしていたように思います。

 

なぜ原作者はアンディを脱獄によって冤罪から解放させたのか

私の解釈ですが、きっと原題が答えなのではないかと思います。

 

原題は「The Shawshank Redemption」です。

この「Redemption」は「贖罪」という意味です。

本作には、よく聖書が登場します。所長が聖書を持っていたり、聖書の中の言葉も登場します。

そして、「贖罪」はキリスト教で、「神の救い」を表す言葉として使われています。

つまり、人間はアンディを「罪人」としたが、神は「無実の罪人を助けだす術をアンディに与えた」ということ。

 

そして、

自分の邪魔をする人間を殺し、

服役者を自らの欲望のために利用した、人定義の罪人でもあり、

キリスト教でも罪人とされる所長は自殺ですが死に至ります。

所長が死に至る前に目にしたのは、

「主の裁きは下る。いずれ間もなく」という、所長の奥さんが作った刺繍だった。

[ヨハネの黙示録 22:12]

「見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。

 

「人間は間違った裁きを下すこともあるが、神は正しく裁かれる」ということを強く伝えたいが為に、

「贖罪」という意味の「Redemption」を用いて、冤罪の主人公を作り出したのではないかと思いました。

 

 

 

2. 刑務所内は、一見多くの人には関係なさそうな環境だが、実は現代社会の比喩?

 

刑務所に登場してくる人物は、「罪人だから普段の行いも極悪」というわけでもなく、

暴力を差し置けば、よく見るようなパーソナリティを持つ人間のように思えます。

 

例えば、自分の意見に反するような言葉を放ったり、癪に障る人間を見かけたら警棒で殴る主任刑務官。

暴力はふらなくても、自分を正しいと思い込み、人の意見を聞かず、

または聞いたふりをして断罪してくるような人間は、皆さんも見たことがあるのではないかと思います。

 

また、ボッグス・ダイアモンドのような、ストレス発散のウザ絡みをしてくる人や、

所長のように金に目が眩んでしまう人も、珍しいパーソナリティーではないように思えました。

話は変わりますが、星の王子さまでも、王子様が旅をして出逢う、星の住人のパーソナリティーが、

それぞれ私たちが陥りがちなことを比喩していたり、

「モモ」では、時間銀行に搾取される人間が、現代の利益最大主義の社会を比喩していたりします。

物語では、このような比喩表現が用いられることはよくあるので、もしかしたら、現代社会の比喩かなと思いました。

 

 

 

3. 信仰があるからといって善人にはなれないということ

所長は、服役者全員に聖書を配っている。

「正しい行いに立ち返らせる善人なのか??」と序盤は勘違いしていました笑。

所長が、聖書を大切にし、神を信じていることは終始変化はなかったのかもしれませんが、

その行いは決して許されることではありませんでした。

 

そして、細かい点ですが、所長は、映画の前半では、背広の襟に十字架型のピンバッジを付けていて、

不正に着手し始めてからは、円形のピンバッジに変わっているんです。

神から離れ、情欲に生きてしまっていることを見える形で表現したのでしょう。

そして、所長は、聖書に書いてある通りの結末を辿ります。

 

[ヤコブの手紙 1:14]

人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。

[ヤコブの手紙 1:15]

そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。

 

また、キリスト教では、「主イエスを信じることで、罪が赦され救われる」とされますが、行いが伴わない信仰は、信じてないことと同義とされているように思います。

[ヤコブの手紙 2:16]
あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。

[ヤコブの手紙 2:17]
同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。

 

 

4. 身体的な自由を奪われたとしても、心は自由であることの重要性

アンディは、刑務所の檻の中で、身体的な自由を奪われていましたが、心は常に自由でした。

服役者は、仮釈放の判断をされる際に「出れるかも!」みたいな期待を抱きますが、

何度も審議を繰り返すうちに、「期待をすれば傷つくだけだ」と思うようになります。

モーガン・フリーマン演じるレッドは、主人公のアンディに対して

「期待は失敗したときの苦しみを増大させる。だから希望なんて持つのは危険だ」

と言い放ちます。

期待したせいで、現実とのギャップで傷ついてしまうことは、私達にもあることだと思うので、共感できる部分かと思います。

 

ですが、主人公のアンディは、どれだけ絶望的な状況に陥っても、希望を捨てることはありませんでした。

身体的に自由を奪われていても、心はいつも自由だったのです。

他の受刑者は、仮釈放で社会に戻されても、心は塀の中と変わらず不自由でした。

アンディは、脱獄し、身体的な自由を手にすると、夢の地で口にしていた希望を行動に移します。

 

私達を例にすると、

「仕事の忙しさ」や「自身の常識の強要」。「価値観の押し付け」などで自分の意思とは反するような行動を無意識で強いられ、ストレスを溜め続けてしまうようなことも珍しいことでもないのかと思います。

「郷に入れば郷に従え」なんて言葉もあるくらいです。

「みんなと同じであるべき」そんな心の縄が私達を縛り付けているようにも思えてならないのです。

 

突き詰めれば人間が判断する正義はあくまでも相対的であり、絶対的な正義ではない。

私はそう思います。

 

「夜と霧」を書いたヴィクトール・E・フランクルも著書の中で

どれだけ絶望的な状況に陥ったとしても、与えられた環境でどう振る舞うかという自由だけは誰にも奪えない」と言います。

与えられた環境でどう振る舞うかは自分次第です。

 

「自分の心は自由であること」

 

それを認識できるだけでも、先の行動は変わってくる気がします。

 

 

 

5. 希望を持ち続けること重要さ

先々で触れてきたことなので、最後くらいざっくり書こうと思いますが、

主人公のアンディは希望と信仰を持ち続けたことにより、救いが与えられて自由への道が与えられたのだと思います。

傷つくことを恐れて、希望を捨ててしまっている瞬間は、きっと多くの方の経験にもあるかと思います。

希望を持つということは、忍耐のいることです。思ったように物事が進むことの方が稀で、希望を打ち砕かれるような出来事は幾度となく訪れます。

 

先々で触れた「夜と霧」でも、希望を持ち続けた人だけが最後まで生き残ったとあります。絶望を経験した人も希望を持ち続ければそれが原動力になりますもね。

 

最近ものすごく話題になった「鬼滅の刃」でも、

主人公の炭治郎は、カナヲに対して「人は心が原動力だから」といっていました。

 

考えてみれば当たり前ですが、ものすごく感銘を受けたひとことでもありました。

 

 

ではまた!